シリーズ人〜human〜

第5回、「プリムローズ以前」

はじめに

 冷たい小雨の降る寒い朝、遙か昔の春合宿を思い出すことがあります。 でも、本当に遙か昔、私がマネージャーだったのは遙か昔。 ずーっとフットボールから遠ざかっていましたが、 吉岡さんが監督ご就任という話を聞き、 一年余り前に「竹の子の会」に出たのが運の尽き。 この原稿依頼を頂戴しました。 プリムローズという名前すら無かった草創期のプリムローズについて、 そしてその頃マネージャーは何をしていたか、 について書くというのがご依頼の内容です。 長くなりそうなので端折って、端折って進めましょう。

私は如何にしてマネージャーになったのか

 まず私は如何にしてマネージャーになったのか。 高校時代からTVでフットボールを見ていた私は、 大学はフットボールの強いところに行こう!と思っていましたが、 試験に失敗。 次善の策として、映画と歌舞伎を見るのに便利な東京に近いところの大学に入りました。 理科系で授業も多いし、もう運動部は止めにしよう、 でも知り合い一人いないところで何かサークルに入らないと暗くなりそうだし、 と思いつつバス停に立っていた四月のある日、 赤いユニフォーム姿(当時は上が赤、下がシルバー?)の数人が目の前をユルユルと駆け抜けて行きます。 愚かな私はそのまま反転してグランドへ。 先ほどの数人プラス三々五々集まって来る更に数人。 立って見ていた人に、無謀にも「マネージャーをやりたいのですが」と声を掛け、 そのまま入部してしまいました。 誰も特に喜んでくれている、という風では無いにしても、 丁寧に色々と説明してもらいました。 練習は週に三、四日、春は二週間に一度くらい練習試合が、 秋には同好会のリーグ戦があること。 主力は四年生で、困ったことに三年生が三人、二年生が二人、 一年生はまだ数人しかいない、という衝撃的な事実。 TV観戦しかしたことの無かった私にとって、 オフェンスもディフェンスも同じ人がやるとは想像もしていませんでした。 当時は本当に人数が少なく、半面のスクリメージは当たり前。 スクリメージができるのはましな方で、当たるだけ、 ダミーを押し続けるだけという日や、薄暗いし、寒いし、 人もいないので、ひたすら走った秋の夕暮れ、 と言うこともありました。 私たちも時にはダッシュに付き合い、長距離は最後の一周に付き合い、 合間にグランドの石拾い、という何だかよく分からない時もありました。 その人手不足も2、3年後には解消しましたが。

如何にしてマネージャーの仕事を探したか

 さて如何にしてマネージャーの仕事を探したか。 話を戻して、その次の日には練習を見に行きました。 一応、汚れても良い格好をして。 前日、キャプテンと四年生数人に言われたマネージャーの仕事は  1)試合の時にスポーツドリンクを作る  2)スコアブックをつける という分かり易いけれど、 途方に暮れる内容でした。 マネージャーは四年生が二人いて(とうとうお会いすることはありませんでした)、 試合の時には先輩の彼女が来て手伝ってくれる、 ということでしたが、具体的な仕事はさっぱり分からないので、 まずその日は救急箱を整理してみました。 分からない時はとにかく観察することが肝要ですから、 何はともあれ、毎日練習を見学して、何が必要か、 スコアブックをつけるにはどうすれば良いかを探すことにしました。 そのうちに次の様なことが見えて来ました。
  • 練習や試合の時には水とタオルが必要
  • 防具にはいくつかの部品があって、それは時々壊れるので予備が必要
  • けがした時や防具が壊れた時は選手の動きを見ていれば、だいたい何が必要かわかる。彼らがベンチにやって来るまでに予め準備しておけば、なるべく早く彼らをグランドに戻すことができる
  • ちょっとはキャッチボールができたり、フットボールの中身が分かったりする方が、選手とコミュニケーションがとり易い(中身が分からないと、もっと違う付き合い方ができたかも知れませんが)
  • スコアブックをつけるには、ルールはもちろん、プレーが分からなくてはならない(先は長い!さあ困った)

 細々とした仕事は練習を毎日見に行っていれば何とか対応できそうだけれど、 スコアブック対策は結構悩み、苦労しました。 春は無理でも、秋には簡単なもので良いから何とかしたい、 と目標を定めました。 選手の動きを覚えるには練習を見るのがとても役に立ちました。 パーツ毎の練習を見ていると、だんだんラインやバックスの動き方、 レシーバーのコースの取り方等が分かって来ました。 よそのチームの試合やTVを見ながらスコアブックをつける練習をして、 公式記録にはならないけれど、プレーを振り返ることはできるものを目指して、 自己流ながら何とかつけられる様になったのは何時だったか。 少しはスカウティングの役に立てたかと思います。 もう、何処にもそのスコアブックは残っていないと思いますが。

私は何を考えてマネージャーをしていたか?

 私は何を考えてマネージャーをしていたか? 結局のところ、私は自分の楽しみのためにマネージャーをしていた気がします。 好きなことしか、していなかった気もします。 とにかくマイペースでしたから、 部員や後輩マネージャーは訳が分からなくて困ったことでしょう。 私が在籍した頃には各学年一,二名ずつマネージャーがいましたが、 各人がそれぞれ判断して得意な仕事をこなし、 手の足りない部分は助け合う、適当な分業体制に入っていました。 分業のマニュアルがある訳でも無く、 試合になると私はスコアブックに殆どかかり切りで偏っていた分、 いつも救急車に同乗することになってしまったマネージャー、 気が立っている選手に水を持って行って逆に叱られたマネージャー、 随分と後輩には迷惑を掛ました。

 私が最低限心懸けていたのはとにかく練習を見ることでした。 四年以降は殆ど練習に行けなくなり、 そうなると選手の調子や特長が分からず、 試合を見てもピンと来ない感じになってしまいました。 とにかく見続けることでしか、選手とより良い関係が作れないと思っています。 ある時期からはなるべく、 ラインの選手とより緊密にコミュニケーションを取りたいと思う様になりました。 目立つプレー、目立つ選手は誰もが声援を送ってくれます。 でも、そのプレーを引き出した良いブロックや良い判断にも、 せめて身内として声を掛けたい、何とか記録に残したい、 と思ったのです。 これは現監督の吉岡さんが良く言っていらした、 「ラインはバックスを守る誇り高い仕事だ」という言葉の所為かもしれません。

マネージャーをしていて有り難かったこと

 マネージャーをしていて有り難かったこと。 私がいた頃の選手はとても紳士的でした。 当たり前のことに対しても有難う、 と言ってくれた当時の選手の感性は、 マネージャーのモチベーションを上げるという面で、 とても有り難いものでした。 また、恋の行方を心配してもらったり、 スタジャンをプレゼントしてもらったり、 と選手から沢山の心遣いを頂いたのに、 それにきちんと報いられない時があったのは、 申し訳なかったと思います。 今でも昔と同じように皆と付き合うことができるのは、 色恋抜きの付き合いだったからこそ、当時の「部内恋愛禁止!」の家訓? のお陰でしょうか。 あと、私が怖くて声が掛けられなかった選手の皆さんゴメンナサイ。 (今では、息子に、何処のお母さんより怖い、と言われています)

おわりに

 最後になりましたが、現役のプリムローズの皆さんへ。 人数が少ないのはつらいかもしれません。 でも、フットボールは色々な才能を、様々に生かせる、 面白いスポーツだと思います。 選手とマネージャー、そして監督、コーチ陣で、 今年のプリムローズを作り上げて下さい。 たまには試合に行ってみたいのですが、 毎日曜、息子の野球の試合があるので行けそうにありません。 このサイトを通して応援させて頂きます。 そして、本当の最後はおばさんからのお説教。 大学から先、自分の人生は自分の考えで決まります。 もう誰も道を切り拓いてはくれません。 だからこそ人生は面白い、と思って、お互い頑張りましょう!